こんにちは。
皆さんは、日本語について疑問に思っていることがありますか?僕はあります。子どもの頃から不思議に思っていて、15年間ずっと「何でだろう」と思いながら放置していました。その疑問とはこういうものです。
「寝る」と「眠る」はなぜ似ているのか。
この2つはそれぞれ異なる意味を持つ、別々の単語じゃないですか。どちらも動詞ですが、「寝る」は横になるっていう姿勢的な問題の話で、「眠る」は睡眠状態に陥っていることです。
これだけではないです。「争う」と「荒ぶる」もです。これらはそれぞれ全く別々の単語ですよね。しかし、発音が何となく似ていて、意味もどことなく通じるものがあります。
「終える」と「老いる」もそうです。別々の単語のはずが、発音も意味合いもどこか似ています。
僕は、日本語のこれらの漠然とした共通点に、ずっと違和感と言うか、得体のしれない何かを感じていました。「一体なんだんだこれは?」と。
しかし、遂にその謎を解き明かすことができました。その謎を解くキーワードが、大和言葉です。それについて、殴り書きで書いていきます。
大和言葉の性質
大和言葉はそもそも文字を持たない言語です。つまり、太古の日本人は「音」自体に意味とかイメージみたいなものを込めていました。
例えば「あ」。これは「すべてのはじまり」という漠然とした意味を持つ音です。
「あ」=「すべてのはじまり」
具体例『天(あま)』『雨(あめ)』『歩く(あるく)』『足(あし)』『あけぼの』…。
「天(あま)」は全てを作りました。そして、そんな天から降ってくるものだから「雨(あめ)」。今いる場所から移動して別のところに向かう、新しい場所に行くことが「歩く」。そのために必要なものが「足」。「あけぼの」は意味のまんま。
「い」は「いきる」という漠然とした意味を持つ音です。
「い」=「いきる」
具体例『命(いのち)』『生(い)きる』『息(いき)』『今(いま)』『居(い)る』…。
といった感じです。大和言葉には一音一音に漠然とした幅広い “意味・イメージ” がこめられていたのです。それが、現代にまで残り続けているのです。
「寝る」と「眠る」
すると、最初の問いが解けます。「寝る」と「眠る」が似ているのは、偶然なんかではないのです。
大和言葉に置いては 発音が似ている=ほぼ同じ意味合いを持つ ということになるからです。
「ねる」と「ねむる」の違いとしては、後者に「む」の音が加わっています。「む」がどういうニュアンスを持つものなのかは調べきれていないので正確には分かりませんが、この「む」という音が加わったことで、2語の微妙な変化が起きているのです。
大和言葉は本来一音一音に意味が込められている言葉なのです。元々は大和言葉に漢字なんてものはありませんでした。つまり、漢字自体は後世に後付けされたものなので、たとえ漢字が異なっていても音が近ければ語源は同じなのです!
意外にも漢字は、大和言葉の本質を分かりにくくしている元凶なのです。
“漢字”が日本人の感性を破壊した!?
例えば、「鼻」と「花」、2つの漢字があります。これはどちらも「はな」と読みますが、それって単なる偶然だと思っていませんでしたか?
もしそう思っていたのなら、それは全然違います。これは本来、それぞれ同じ意味・イメージの同じ言葉なのです。
「花」は顔の先端についていますよね。「花」も植物の先端についているものです。「はなっから」という言葉は「最初から」という意味です。つまり、「はな」という発音は「はじめ・先端」といった意味合いのある音なのです。
つまり、古代の日本人は、人間の身体についている「鼻」と植物の「花」を区別していなかったのです! 人間と植物を全く同じ概念として認識していたのです。
実は、これだけではありません。他にも
「目」「芽」→(め) (め)
「歯」「葉」→(は) (は)
「耳」「実」→(みみ) (み)
「頬」「穂」→(ほほ) (ほ)
など、人間の身体と植物との発音は驚くほど一致しているのです!意外と気づかなかったという人、多いと思います。
さらに、植物は幹と枝でできていますよね。「幹」という字は「幹(から)」と読むことができます。 つまり幹(から)と枝(えだ)です。
勘のいい人は気がついたと思います。そう、身体(からだ)ですよね。ここも実は共通しているのです!
上に述べた通り、人間の身体と植物は、ほとんど同じ概念で構成されているのです。ところが、今の日本人はそのことを理解している人が少ないですよね。
それも当然です。「鼻」と「花」のように、それぞれ全然違う漢字を当てはめられているのですから。
中国によって漢字が伝えられ、それぞれ別々の漢字を当てはめることで、本来1つだったものを別々の物のように分離・固定してしまったのです。
「漢字が物事を正確にハッキリ定めてくれたんだ」と捉えることもできますが、これは逆に、大和言葉に表された日本人の感性の広がりや流動性を失くしてしまったと考えることもできるでしょう。
「かく」は「書く」「描く」「掻く」と漢字を当てはめたことで、3つが同じ動作由来であることを分かりづらくしました。
「かく」とは本来「傷をつける」という一つの動作を表す言葉でした。想像してみて下さい。古代日本人は何に絵や文字を書いていましたか?
正解は、粘土板や木の板です。それらに尖った木の棒やらで傷をつけていました。つまり、引っ掻いて字や絵をかいていたのです。
現代では「書く」「描く」「掻く」と分離してしまい、別々の単語のようになってしまっています。
「とる」に関しては「取る」「採る」「撮る」「執る」「捕る」「摂る」「獲る」「盗る」「録る」…など、もう意味が分かりません。
本来全て同じ「とる」という一つのニュアンスの意味ですが、一つ一つに漢字を当てはめたことで、かえって「どのシーンはどの字だっけ」というややこしい問題が生じています。
まとめ
大和言葉は、一音一音に日本人の感性がこめられた言葉なのです。それを漢字という“字”自体に意味がある文字を導入したことで、本来のニュアンスを分かりづらくしてしまいました。
古代日本人は 人間のからだと植物(自然)を全く同じものだと認識していました。しかし、それらを一緒にすることは漢字が許しません。
漢字は、高度な概念理解を提供した代わりに、日本人の感性を奪い去ってしまったのです。そこで、僕たち現代日本人一人一人が、大和言葉に積極的に触れていく姿勢が大切になるのです。
ぜひ、この記事を見て興味を持ったという方は、下記のリンクの記事に目を通して見て下さい!僕が参照した「大和言葉」に関するサイトたちです。
鼻と花が同じ音なのは偶然? 語源をたどって見えた「大和言葉」 - まぐまぐニュース!