こんにちは。
僕は以前、大学の授業の一環で“言語”について調べたことがあります。
言語は、人間が思考したり世界を把握するのに絶対に欠かせないものです。また、言語はそれぞれの文化によって大きく異なっていたりします。
今回はそんな言語の「名詞」に焦点を当てていこうと思います。
名詞には、言語によってさまざまな分類方法があります。
具体例として、英語には可算名詞と物質名詞に分ける二分法という分け方があります。フランス語には、男性名詞と女性名詞に分ける方法があります。
日本語にはどちらも存在しません。
では、日本語には名詞を分類するという考え方が無いのかというと、そうではありません。
日本語には助数詞というものがあります。一“冊”とか一“杯”というやつです。この助数詞は、人がモノをどう見ているかを反映する鏡となることがあり、とても興味深いものなのです。
では質問です。「鉛筆、映画、ホームラン」の共通点は何でしょう?
これらの名詞は、みな「本」と数えます。つまり、同じ助数詞で他と切り離され、まとめられているのです。
一見何の繋がりも無いように見えますよね。しかし、これらの名詞を我々日本語話者は、ほぼ無意識にカテゴリー分けしているのです。
「本」という助数詞には「長く、細く、筒状」という大前提があります。つまり、鉛筆やタバコを本と数えるのは「本」という助数詞の王道な使い方というわけです。
そして我々日本語話者は、この「長く、細く、筒状」というイメージを、少々引き延ばして応用させています。
具体的には、映画のフィルムのリールに重ねたり、ホームランのボールが描く軌道のイメージと一体化させたりです。
しかし、アメリカに住んでいる日本人の子供たちを対象に助数詞「本」の数え方を調べてみると、面白い結果が得られました。
12歳になるまでに日本を離れ、その後2年以上英語圏で生活している子供は、「長く、細く、筒状」のイメージを当てはめた基本的な「本」の使い方は日本の大人と同じようにできているものの、映画やホームランを「本」と数えることはほとんどなく、滞米期間が長くなるほど、抽象的なイメージへの応用が遅れるということが観察されたのです。
つまり、日本で普通に育ってきた子供と、アメリカに滞在している子供との間には、モノの捉え方や見方に違いがあるということです。
まとめ
私たちが当たり前に捉えている身の回りのもの、例えば身体部位なども、言語によってはその意味が違っていたりして必ずしも私たちの持つ意味と同じではありません。
名詞の捉え方も、周りの文化によって影響を受けています。空間認知においても、それぞれの置かれた環境の違いで表現方法も大きく異なってきます。
右や左といった基本的な概念すら、言語によって作り出された空間認知の一つで、すべての人にとって普遍的ではないのです。
言語を調べることによって、人々のモノの見方・捉え方は文化と深い関わりをもつということが分かりました。これは非常に興味深いことですよね。
以上の内容は、井上京子さんの『もし「右」や「左」がなかったら~言語人類学への招待~』(大修館書店,1998)という本の内容を一部まとめたものです。
ここで書いたこと以外にもたくさん面白い話が掲載されています。興味がある方は、おそらく図書館などに置いてあると思うので、ぜひ借りてみて下さい!
最後まで読んでくれてありがとうございます。