こんばんは。
TOEICやTOEFL、IELTSなど、英語能力を試す試験には多くの種類があり、毎年どれも多くの受験者を抱えています。近年、日本では英語の重要性が非常に高まっており、大学入試や就職試験などの場でも英語能力の有無が重視される傾向になりつつあります。
これは日本だけの事でなく、世界中の国でも同様に英語能力の有無が重要視される社会になりつつあるのです。特に、発展途上国などの貧しい国ではその傾向が顕著にあると言えます。
たしかに、英語を話せるようになればコミュニケーションの枠が大幅に広がりますし、人と人との交流が円滑になり、活発化します。英語能力が現代において重要であることは確かでしょう。
しかし、行き過ぎた英語教育や英語第一主義的な考え方は、その国や地域に大きな悪影響をもたらす可能性もあるのです。そこで今回は、行き過ぎた英語教育がもたらしうる衝撃のデメリットについてをまとめてみました。
目次
固有文化の消失
とある国で、英語が公用語化され、徹底した英語教育が行われたとしましょう。その国の国民は、英語が生活に必須のものとなり、英語が流暢に喋れるようになっていきました。その代り、先祖が代々使用してきたその国土着の言語が喋れなくなっていき、文字も読めなくなっていきました。
そうなると、自国の歴史書が読めなくなりますし、何より、その言語が持つ独特な言い回しや単語、文化が失われることにもなります。世界とは繋がりますが、自国のアイデンティティや文化を失うことになるのです。
また、英語が浸透し、世界と繋がったことで、アメリカの映画やテレビ番組、イギリスの音楽や本、その他、英語で制作されたありとあらゆるカルチャーが流入してくることになります。
それにより享受できる娯楽は増えますが、その代り、その国独自のカルチャーが育ちにくくなります。なんといったって、その国の人がミュージシャンとして活躍するには、世界を相手に戦わないといけないわけですから。
英語を媒介して世界と密着に繋がってしまったために、外国の強いカルチャーがどっと国内に流入してくるのです。その状況で国内のカルチャーを発信するには、必然的に世界を相手にせざるを得なくなってしまうのです。
「言語」自体の成長停止
英語を重視し、英語に依存した教育政策を続けたらどうなるでしょう。そうすると、土着の言語の発展が停止してしまいます。新しい概念が発見されたり作られたりしたら、新しい言葉が生まれる、そんな当たり前の事が行われなくなってしまうのです。
たとえば、フィリピンでは小学校における算数や理科の授業は全て英語で行われています。なぜかというと、フィリピンで昔から使用されているタガログ語には「光合成」や「染色体」といった単語が存在していないからです。
何千とある膨大な単語を一つ一つ母国語に翻訳して造り出していくぐらいなら、いっそそのまま英語で教えてしまえということです。わざわざその国の中だけでしか通じないような新しい単語を造りまくるよりも、全世界で既に使用されている英語で教えた方が色々と良さそうですからね。
しかし、そうしてしまうと、今後一切、母国語で新しい単語や概念が造り出されることはなくなってしまいます。「光合成」に関する新発見があったとしても、「光合成」という一番基本的な単語がその言語に存在していないのですから。その言語の成長が完全に止まってしまうのです。
余談ですが、それに対して日本では、明治時代の偉人たちが、欧米から入ってくる新しい概念や言葉を一つ一つ翻訳し、日本語にしていきました。そのお陰で、現代の日本では、日本人が日本語のままで高等教育を受けることができるのです。
エリート層の流出・搾取
たとえば、英語が公用語の1つとされている発展途上の貧しい国において、英語はどのような効果をもたらすでしょうか。それは、エリート層の国外流出です。英語が喋れれば、貧しい母国に留まるよりも、先進国の会社へ就職する方がよっぽど良い暮らしができるのです。
実際に、英語が公用語の1つとなっているスリランカでは、エリート層の家庭の子供は英語のみを教えらえて育てられる、というケースが非常に多くあるのです。母国語を教えず、英語ネイティブとして育てることで、将来的に外国で働けるように施すのです。
その結果、貧しい国のエリート層は、欧米の優秀な企業に次々と流出していってしまうというわけです。たしかに、能力のある人がそれ相応の賃金を貰えるようになることは素晴らしいように思えるかもしれません。けれど、それは“世界が1つの国であれば”の話です。
世界が多くの国々に分かれている以上、まずは国同士の経済格差を縮めなけれななりません。しかし現状では、貧しい国のエリート層は、「英語」をパスポートに豊かな国へと流出してしまうため、いつまでたっても国が発展せず、経済格差は縮まらないのです。
この記事のまとめ
- 英語教育を進めることで、英語圏(とりわけ欧米)のカルチャーが大量に流入し、その地発祥のカルチャーが生み出されにくくなる。欧米の国々にとっては、商売エリアの拡大に繋がる。
- 英語に依存した教育を行うと、独自の言語の成長がストップしてしまい、ますます英語に依存し、といったスパイラルに陥る。その結果、英語を喋れる人と喋れない人との間で、大きな教育格差や経済格差が生まれてしまう。
- 貧しい国のエリート層が、高い賃金を理由に、大量に国外へと流出してしまう。その結果、その国の発展が遅れ、国同士の経済格差はいつまでたっても縮まらくなる。人的資源の搾取ともいえる。
行き過ぎた英語教育には、以上のような恐ろしいデメリットが存在していると言えます。このことを都合よく表した言葉が「グローバル化」です。グローバル化は、まるで世界が進むべき絶対的に正しい道であるかのようにされていますが、それには暗い影の側面もあるのです。これは、欧米による新しい植民地主義の始まりとも言えるのではないでしょうか。
今回は、英語教育に関するネガティブな側面を散々伝えてきましたが、そうは言いつつも、個々人にとって英語が重要であることは変わりありません。今後は日本も、英語教育に力を入れるべきだと思っています。
しかし、英語を重視するあまり日本語を蔑ろにしてしまうようなことは絶対にあってはなりません。それは、この国が守ってきた文化や伝統を消失することに繋がります。国際語としての英語も尊重しつつ、母国語である日本語も重んじることこそが、これからの日本社会において重要になるのではないでしょうか。
最後まで見てくれてありがとうございます。