人生に地図はない

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経済的自由と幸せに生きる方法を日々模索する、社会人ブロガーによる社会系雑記ブログ

「勉強ができる=頭が良い」が必ずしも当てはまらないことを知った話

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こんばんは。

 

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よく世間やテレビなどでは、偏差値の高い人や優秀な大学を出ていたりといったいわゆる“勉強のできる人”を「頭が良い」と表現したりします。当時小学生だった僕も、勉強ができる人=頭の良い人が絶対的に正しいことだと思っていました。

なぜなら、当時小学生だった未熟な僕は、“国が間違うわけないし、メディアが嘘を言うわけがないし、世間が正しくないはずがない”と思い込んでいたからです。勉強できる=頭が良いは、テレビや世間で頻繁に言われていることですから、それが確実に正しいことだと思って疑わなかったのです。

しかし、小学4年生になった頃、ある転校生の存在によって、僕の持っていたその価値観は大きく崩れ去ることになったのです。

 

目次

 

変わった転校生の存在

 

小学4年生だったある時、僕のクラスに1人の変わった転校生がやってきました。その転校生は、整理整頓ができず、机の周りやお道具箱の中が常に物が溢れかえって散乱していました。また、運動も勉強もクラスでビリッ尻のため、悪い意味でクラス中から注目を浴びていました。

しかし、僕はそんな彼とかなり仲が良かったのです。なぜなら“インターネット”という共通の話題があったからです。当時、クラスの中で、日常的にインターネットに触れていたマニアックな人は、僕とその転校生だけだったのです。そこで僕は、彼から色々なサイトを教わったり、様々な話を聞いたりしていました。

そうしているうちに、僕はあることに気がつかされました。彼は、自身の興味関心のある物事に対して尋常ではない知識力を持っていて、また、新しい物事を吸収する力が桁外れに優れていたのです。

彼はいわゆる軍事オタクだったのですが、全世界の戦闘車両や航空機などを把握していましたし、小学4年生とは思えないほどの社会に関する高度な知識を兼ね揃えていたりもしました。また、インターネットやパソコンの仕組みすら、細かく専門家のように熟知していたのです。

 

「勉強できる=頭良い」という価値観の崩壊

 

僕は、その転校生はただならぬ才能があると感じました。知識や思考・考察のレベルが、明らかに他のクラスメイトとは一線を画していました。まさに名探偵コナンのように、頭脳だけが大人なんじゃないかと考えたほどです。

しかし、そんな彼ですが、驚くべきことに勉強が全くできなかったのです。テストは毎回0点近くを取りますし、宿題もやってこないし、毎日毎日、勉強関係で居残りをさせられていたのを今でも傍から見ていて覚えています。

ここで僕は矛盾を感じていました。当時の僕は「勉強できる=頭が良い」という価値観があり、それはつまり裏を返せば、「勉強できない=頭悪い」ということだったからです。彼は勉強ができないから、頭が悪いはず。それなのに、あの常人とは並外れた知識量や高度な思考・考察力はなんなんだ、と。

そこで僕は、ようやく当たり前のことに気がついたのです。彼が勉強をできないのは、勉強をしていないからであるということを。彼は、自分の興味関心の惹かれるものには全力でコストを割きますが、興味のそそられないもの(勉強など)には見向きもしていなかったのです。つまり彼は、勉強はやっていないからできないだけであって、実際は頭の良い人間だったのです。

この頃になって、ようやく洗脳が解けたような気持ちになりました。頭の良さを測る基準は、決して学校で強制される勉強だけではないと。しかし、「世間」はそう甘くはありませんでした。

 

容赦ない「世間」の評価

 

小学校のクラスという小さな「世間」は、彼のことを、勉強ができない頭の悪いやつだというレッテルを貼り付け、彼を完全にバカにしていました。中には、「お前ってなんで勉強も運動もできないんだよ」と、直接つっかかってくる奴もいました。しかし彼は、何を言われても無視を決め込んだりして、たまに「はいはいワロスワロス」とテキトーにあしらうぐらいで、ほとんど言い返したりはしていませんでした。

傍から見ていた僕は、ものすごくモヤモヤとした気持ちになっていました。彼は本当はめちゃくちゃ頭が良いし、凄い人なのに、周りは完全に「頭が悪いやつ」と決めつけていたからです。世間では、勉強ができるかできないかが、その人の頭の良さを決める絶対的な指針なのです。

 

「勉強できること」が頭良く見える理由

 

ところで、世間ではなぜ頭の良さ、悪さを測る指針として「勉強できること」がこれほどまでに重視されているのでしょうか。これは僕の予想ですが、勉強においては他人の努力が見えづらいからではないかと思います。

基本的に、学校の勉強というものは1人でするものです。教室で授業として教わる以外にも、勉強のできる子は、自宅で復習したり、塾で予習したりといった、学校外のところでもきちんと勉強をしています。

勉強ができない子は、基本的に家での復習や自習をしていません。学校の授業が全てです。つまり、自分が予習復習をしていないので、勉強ができる子が、授業以外で勉強をしていることを想像できないのです。

その結果、同じ時間、同じ授業を受けたはずなのに、テストで明らかに大きな差がついているという不思議現象を説明するために“頭の良さ”を持ち出すのです。

 

この記事のまとめ

 

勉強ができることだけが頭の良さを決めているわけではない、というのは至極当然なことなのですが、意外と底の部分を勘違いしてしまっている人は多くいると思います。個人的には、勉強は“頭の良さ”ではなく「積み重ね」と「努力」がものを言うと考えています。

むしろ、血の滲む努力の末に得たスキルを、頭が良いから、と一言に集約してしまう方が失礼なのではないかなと感じています。でも、勉強ができる人って、知識も自信も信頼もありますし、やはり勉強はできるに越したことはないかもしれませんね。

以上、僕が「勉強ができる=頭が良い」が必ずしも当てはまらない、ということを知った話でした。

 

最後まで見てくれてありがとうございます('ω')ノ