人生に地図はない

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経済的自由と幸せに生きる方法を日々模索する、社会人ブロガーによる社会系雑記ブログ

「セクハラ発言に罰金」法案化から見るフランス社会の崩壊

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こんにちは。

 

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先日、フランスである法案が可決したというニュースを見ました。そのリンクは以下です。

約50万円 フランスで公共の場でのセクハラに罰金科す法案可決 - ライブドアニュース

 

このニュースの内容を簡単に要約すると、公共の場でセクハラ発言などをして他人を気づづけた場合、罰金を取りますよ、という法案が可決されたというものです。

 

僕はこのニュースを聞いたとき、フランスは着実と崩壊に向かっているなと思いました。そういうと、僕がセクハラ発言を容認している人間だと勘違いされそうなので言っておきますが、僕は、セクハラ発言をすることは絶対に認められないと考えています。

 

僕が、ヨーロッパが崩壊に向かっていると考える理由は、フランスがそのセクハラ発言を法律で禁止するような社会になってしまっているからです。

 

 

目次

 

 

そもそも法律とは

 

そもそも法律はなぜあるのでしょうか。それは快適な社会を維持するためです。大勢の人が暮らす社会では、その上に何かしらの絶対的な決まりがなければトラブルが頻発してしまいます。

 

片方の人は正しい行為だと思っていても、もう片方はそれに対して良くないと思っているかもしれません。そういった価値観の違いは良くあることです。そこで、法律が1つの絶対的な指針の役割を果たすわけです。

 

 

道徳やモラルについて

 

しかし、“法律を守ること”だけが快適な社会を維持するための手段ではありません。法律で決められていなくとも、人は守らなければならないものがあります。それは、いわゆる「道徳」や「モラル」といったものです。

 

例えば「大きな声で挨拶をしなければならない」とか「電車ではお年寄りに席を譲らなければならない」とか「浮気をしてはいけない」ということは法律で決められていません。ただし、だからといって守らなくてもいいというわけではありませんよね。

 

これらは、例え法律で決められていなくとも、一人一人が守って、あるいは実践をすることで、よりよい快適な社会が築けるわけです。

 

 

なぜ法律で決めていないのか

 

ではところで、道徳的に正しい行為、あるいは道徳的に間違っている行為はなぜ法律で決められていないのでしょうか。だって、快適な社会を作るには必要なことですよね。それなら法律で決めてしまえばいいじゃないですか。

 

それでも、道徳やモラルといったものを法律で決めてしまわないのは、“人として当たり前のことだから”なのです。人を故意に不快にさせてはならないことや、困っている人がいたら積極的に助けること、これらは、人として当然のことです。

 

法律は、価値観のズレで争いが起こらないため、色々な考え方を持つ人々が、共通した指針を見出せるために設定するものでした。一方で道徳やモラルといったものは、そもそも価値観の衝突や議論が起こりえない、あまりにも当たり前なことなので、わざわざ設定する必要がないのです。

 

近所の人に会ったら挨拶をする。友達の家にいったら「お邪魔します」を言う。先生には敬語を使う。当然のことです。そして、セクハラ発言で人を傷つけない。これもまた、議論の余地なしに、当然のことです。

 

 

法律で縛らなければならない社会

 

僕がなぜ「フランスは崩壊に向かっている」と思うのか、理解いただけたでしょうか。

 

つまり、フランスでは、“悪口(セクハラ発言)を言って傷つけてはならない”という、誰もが当たり前に持っているであろう道徳心でカバーするべき案件を、法律で縛らなければならない段階まで来てしまっているのです。

 

法律はある意味で最終手段です。フランスでは、もう「悪口を言ってはいけない」というおとを道徳心でカバーすることができないレベルにまで達してしまったということです。

 

もちろん、悪口を言われて本当に困っている人・傷ついている人が沢山いるのなら、法律で対処するべきだとは思います。しかし、法律で縛るしかどうしようもないという段階にまで達してしまったこと自体は、やはり悲しいことだと思います。

 

 

法律で縛る問題点

 

「いやいや、世の中悪い奴ばかりだし、あらゆる物事を全て徹底的に法律で縛った方がいいじゃん」と考える人もいると思います。たしかに一理あります。実際に傷ついている人がいるのなら、道徳だなんだ言う前に、あらゆる物事を全て法律で管理した方がよさそうにも思います。

 

しかし、その社会の果てに待つものは究極のディストピアだと僕は思います。そもそも法律とは国家(権力)の持ち物です。その証拠に、国家が消滅したら法律は無くなります。つまり、法律が増えるということは国家(権力)の力が強大になるということです。

 

そうなると、人間個人の力は非常に弱いものになり、国家が全てを管理・抑圧するディストピアになってしまうのです。

 

今回の、フランスのセクハラ発言禁止法案化だって、将来的には“与党議員の悪口を言ったから逮捕!”という自体に発展しないという保証はないのです。

 

 

まとめ

 

  • フランスで“セクハラ発言に罰金”法案化が可決した。つまり、他人を口で傷つけるという行為が法律で禁止されることになったということ。

 

  • 悪口を言う行為は本来、道徳やモラルで当然守るべきもの。それをあえて法律で禁止するということは、フランスの道徳観が相当深刻なレベルに来ているということ。

 

  • 法律は国家権力の持ち物。つまり、法律で何もかも決めてしまう社会というのは、個人の自由や尊厳を大幅に制限するディストピア社会へと近づく可能性がある。

 

日本社会はまだ、道徳とかモラルといったものが非常に重んじられている良い社会だと僕は思います。

 

最近、パワハラだとか不正入試問題とか、あらゆる問題が明るみになってきています。それはつまり、まともな道徳観を持つ人が増えてきたということです。でないと、そういった事実はいつまでたっても裏に隠れたままですからね。

 

社会に生きる僕ら一人一人が、キチンとした道徳観を持つことは何よりも大切なことです。

 

 

最後まで見てくれてありがとうございます。